スポーツワンのイノベーション ジャカルタマラソン立ち上げ記

スポーツワンのイノベーションAインドネシア初の国際マラソン大会「ジャカルタマラソン立ち上げ記」【前編】

いまでは12,000名超が参加するインドネシアの国際マラソン大会「ジャカルタマラソン」は2013年から開催されているが、実はこの大会を最初に企画したのはスポーツワンだった。
今回はこの話しをしよう。

経営者の視察旅行でインドネシアの首都ジャカルタに始めて訪れ、人とバイクと車の多さに驚いたのは2010年のことだった。
なにしろ赤道に近い国なので、湿度も高くとにかくむし暑い!

当時は、日系企業は自動車会社や商社などが進出していたが、ITやサービス業などは珍しかったらしく、新聞が取材にきてでかでかと写真入りで載ってしまった。東南アジアではサッカーが人気なので、サッカーかフットサルの新事業でも出来ないかな、というくらいの気持ちだった。

インドネシアではサッカー、バトミントンあたりが人気だったと思う。そして、サイクリングも人気がで始めていて、日曜日にサイクリングを楽しむ人たちが増えていた。ただしサイクリングは、まだアッパー層の娯楽という感じだった。だが、気温が高いせいもあり、ジョギングしている人は皆無だった。

インドネシアの国際マラソン大会「ジャカルタマラソン」

ここで逆張りしたくなるのが起業家の性!
平均年齢が20歳代で人口が日本の倍ほどもいる国にロマンを感じてしまい、ランニングイベントをこの国でやろう!と思ってしまったのだった。

そして、2011年に本格的にアジア進出を見据え、シンガポールとインドネシアに視察に行く事になった。ところが、成田を飛び立ちシンガポールに着いてから事件が起こってしまった。

右腕全体に原因不明の激痛がはしるのだ。飛行機に乗った時は寝違えたのかなぁというくらいの違和感だったが、シンガポールではバファリンを飲み、ホテルの洗面台に水を張って氷を入れ、腕を冷やしたが、それでも耐えられないくらいの痛みだ。シンガポールでは会社設立の打合せやサッカーチームとの打合せなど入っていたが、かなり予定をとばすことになってしまった。耐えきれないので現地の医者を調べて診てもらうと、確かではないがヘルニアではないか?との診断だった。ヘルニアによって神経を圧迫しているので、右腕に痛みがあるのでは?ということだった。いずれにしてもシンガポールでは悠長に検査している時間がないので、その後のインドネシアでの予定は諦めて帰国して、日本で検査することになってしまった。この時同行した弊社のUと他の2社の社長はジャカルタへとんだ。

余談だが、この時自分がジャカルタに行っていればと後悔している出来事があった。ジャカルタの友人の経営者に現地のプロモーターを紹介され、インドネシア初の相撲興行ができないか?という相談を受けたのだ。自分がいれば即答でやろう!となったのが、Uには響かなかったらしく、話しを流してしまった。後日談では、この後に話しをした他の日本のベンチャー企業と組んで2013年の夏に相撲興行を「日・ASEAN友好協力40周年事業」として、東南アジアでの開催することになったのだった。

さて話しをもどすと、情報収集した結果、まだ本格的なマラソンイベントを行っている団体はないとことが分かり、2012年の秋にインドネシア初の大規模国際マラソン大会をやろうと決意した。

2011年からアメリカの大学を出ていて英語が出来るYを担当者として現地に出張させ、現地の会場、コース、業者を調べさせた。しかし、これが難航を極めることになる。

インドネシアの国際マラソン大会「ジャカルタマラソン」

現地の体育協会に話しをとおし、協力を要請したところ、会場とコースの調整やスタッフなど協力するが、後援費としてなんと1億円を要求された。当時月給2万円程度で人を雇えたと思うので、価値としては10倍以上で、日本で言えば10億円要求されている規模だ。始めての試みでどこまで集客出来るか分からないし、この時点はスポンサーも決まっていなかったので、とてものめる要求ではない。

数ヶ月の間に4,5回条件交渉したが、まとまらず。ここはやんわり断り(当時の体育協会のボスはあっち系に限りなく近い人だったため)、会場とコース調整をできる他の機関や団体を探すことにした。また0からに戻ってしまった。ちなみに、JETROや大使館にも協力を要請したが、ほぼ何もしてくれなかった。当時はクールジャパンもやってなかった。
それだけではない。設備会社やスタッフ派遣の会社とアポをとっても、大幅に時間に遅れたり、待ち合わせ場所に来ないので連絡するとアポをすっぽかして他の現場に行っていることまであった。コピー一つ取るのも、キンコーズもなく、英語も通じず、いちいち日本の3倍の時間がかかった。お先真っ暗で、まったく先が見えない状態だった。

しかし一筋の光明が射してきた。
Yのお手柄で、現地の警備会社の社長が協力出来るかもしれないとの事だった。これを聞いて、すぐにジャカルタに飛び、Yと件の警備会社を訪問した。
警備会社は、中心地の高層タワービルの中にあり、受付から豪華な応接室に通され、緊張して社長を待った。そこに、どう見てもマフィアという風貌の初老のいかつい日系人と体格のよいインドネシア人が入ってきた。なんと、この社長は日本人で、若い時にインドネシアにきて、警備会社をインドネシア人と起業して大成功した人だった。

この会社は軍や警察とのパイプがあり、調整はおそらく出来るとのことだった。
特に社会主義国家から共和国家になった国では軍のパワーは強大で、将軍は非常に力を持っている。その将軍とのパイプを持つ会社だった。

2012年に入り、会場候補近くのセンチュリーパークホテルがスポンサーになってくれたので、Yをこのホテルに住まわせ、本格的に準備に入った。

【後編】へ続く...